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評価:
宇仁田 ゆみ
祥伝社
¥ 980
(2006-05-19)
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コレの4巻までを読んで面白くなってきたのだけど、(時々どきっとさせられる表現は既に前々からあったのだが)そういえば『よつばと!』もそうなんだなァと思い当たって、なんで選ばれたのがまま父とまま娘っていう関係なのか、ってことを考えてみた。
なんで実の親子じゃだめなのか?
なんでまま母とまま息子じゃだめなのか??
まず思い当たるのは、皮肉にも聞こえるがこの子育てを成功させる(た)最大の要因が「もともとは他人」という認識にあったんじゃないか、ということ。
心理学を専攻してる人から聞きかじった話だけど、母親が「子供は自分とは違う人格のもの」と認識するのに対し、一般的に日本の父親は「子供は自分の分身(思い通りになるもの)」と思いがちなのらしい。
なんでかというと母親はうまくいかない子育てや言うことを聞かない子供という現実に日々つきあううちに「ああ、(自分と血は繋がっていても)これは自分とは別のイキモノなんだな」と理解するのに対し、そういった経験が不足したまま子供と接する父親は「自分の子供なんだから、自分の思い通りになって当たり前」という初期の思い込みから抜け出せないから、なんだそうな。
ところがこれがもともと自分の子でないとわかりきった子供ならどうだろう。
一般的に言っちゃってOKなことだと多分思うが、言わずもがな子供の人格を認め、親のコピーではなく一人の人格と認めることはいわゆる“いい子育て”の基礎を作り上げる。
親の分身でもなく、親の期待を体現するものでもなく……
実の親子であればどうしてもそういった思いがぬぐい切れない部分があるだろうが、もとが他人であるコドモであれば当然そんな(言うなれば)幻想を抱く基礎もない。
つまり「もともと他人」という設定は、ショートカットで擬似「我が子の人格を認めている親」を作り上げるための設定に結果的になっている、と考えられるのじゃないかと思うのだ。
これって“子育て(の物語、という注釈がつくにしてもつかないにしても)を成功させる方法”としてはスゴい奥の手だ。(だってフツーの子育てには応用しようもない!)
更によつばとの方は詳しくはわからないが、とりあえずうさぎドロップに限って言うなら一番つきっきりで面倒をみなくてはならない赤ちゃん期を体験していないことが、よりその認識を強化しているように思う。
たとえ他人や大人であっても、たとえ無償が前提であっても、その人のために苦労すればするほど、逆に「あんなにしてやったのに」という思いや、“相手が自分に束縛されなくてはならない”かのような感情は生まれやすい。
それはおおむねの場合その人の器が狭いとか覚悟が足りないとかではなく、自然な心理なのだと思う。
だが、うさぎドロップの「ダイキチ」はそれを体験していないし、よつばと!の「とーちゃん」もよつばを育てることになった経緯(ほんのおおざっぱにしか明かされてないが)を考えるに、その時期から一緒にいた可能性は低いのではないかと思う。
だからこそ、彼ら父親には彼女らコドモに「恩をきせる」理由もない。
(他にも金銭的な問題はあるだろうが、納得済みで払うだろうそういった犠牲よりも、“意思の疎通のできない相手にただただ迷惑をかけられる”というようなある種“理不尽”な苦労の方が、より反発する感情を生み出しやすいのではないかと思う。)
もともと他人(血が繋がっていて≒自分の思い通りになる、わけがない)と認識しているからこそ、そして一番苦労する時期に面倒を見ていなかったからこそ、
「どうして(自分の思い通りになるはずなのに)(あんなに苦労して育てたのに)わかってくれないの」という幻想を抱くこともなく、
更に言えば一般的な養子のように、ひたすら自分(達)の子として育てようと強いて出生を塗り替えるでもなく……
自分が面倒を見るのだという前提と、ちゃんと育てなきゃという認識だけをきっちり押さえておくだけで、あとは基本的に自由にさせる。
これが逆に“いい子育て”になるための基礎を作っている、のだとしたら、なんというパラドックスでありなんという皮肉なのだろう。
(もちろん、現実にそういった関係が成立するかは疑問としても。)
漫画としてのヒットの理由も、そして総括的にはこの関係設定に含まれてるのではないだろうか。
確かに一般的な子育て漫画にも、面白いのはある。トリビア的に「へ〜」と思うことはあるし、他人の目線で子育てってこういうかんじなのか……と見ることはできる。
でもそこに実際に子育てしてる人からの「あるある」はあるのだろうが、子育てなんぞしたこともない一般読者が感情移入して読むには“リアルすぎる”感があるのではないかと思うのだ。
それに比べて「突然コドモが来て父親になった人間の目線」というのは、「日常コドモを奇異の目で見てる人間の目線」とわりかしすんなりマッチするようになっているのじゃないだろうか?
もちろん「父親」に絞って言ってしまえば、『とーちゃん』がより自然に父親のポジションにいるよつばとの方はその要素が薄れてしまうが、よつばの言動は読者にキッカイにうつるように描かれているのは明らかで、そこらへんは「日常コドモを奇異の目で見てる人間の目線」を、おおむね父親の目線として用意してるかおおむね読者用のスコープとして用意してるかの違いにすぎないんじゃないかと思う。
あんまり漫画の問題を社会と結びつけて結論づけるのは好みではないのだが、この核家族社会の日本の中で、コドモを「身近なものでない、異質でキッカイなもの」として見てる人間は、それこそ子育てをしてる(た)人間よりはるかに存在する。(特に漫画を読む層ではそうなんじゃないだろうか。)
だから「コドモをキッカイな目でみる」(ための、)「まま父とまま娘」という設定は、感情移入できる設定として(例え偶然から生まれたものだとしても)「必然」だったし、多くの人に受け入れられる原因となったんじゃないか、と思うのだ。
そしてそういった目線が用意されてると仮定すると、「まま父」の設定に対して「まま娘」でないといけない理由はすんなり導き出されるだろう。
「まま父」がコドモに向けるキッカイな視線がより強まるのはもちろん「まま息子」より「まま娘」だろうからだ。
そこらへんの戸惑いはうさぎドロップの方がわかりやすく描かれていると思う。よつばはりんと比べたらあんまり女の子らしくはないが、それでもフツーにスカート姿のよつばを見て、ああ、ほんとにまま父とまま娘っていう家族なんだなあと、フツーに対応するとーちゃんのかわりになぜか言い様のない驚きめいた戸惑いめいたものを感じた読者はいたのではないだろうか。
で……、ずいぶん最後になってしまったが、「なぜまま母ではいけないのか?」という問題。
これも、今までの流れにあてはめて考えるとなんとなく答えが見えるような気がしてくる。
ずばり、「女性にとっては男だろうが女だろうがコドモはキッカイなものではないから」。
ただし一般的な子育て漫画を見ると、実際的な主観としては全然そんなことはなさそうな雰囲気がするので、言い換えるなら
「女性に対すると男だろうが女だろうがコドモはキッカイなものに映らないから」
とでもなるだろうか。
女性に対すると、男だろうが女だろうが子供はあくまで「自然なもの」と映ってしまうのだと思うのだ。これらの漫画はフツーに仕事をして一人で過ごしていた男性の生活に、(女の)コドモという異分子が入るからこそストーリーが生まれている。
日常に異分子を放り込むことでストーリーを発生させる、というのは、既に分析&発見される「ストーリーが生まれるための構成」の中のひとつにも入っているらしいのだが、これが女性でそれがすぐ異分子でなく自然になってしまうなら、物語が動かなくなってしまうのではないか。これじゃストーリーはうまく生まれてくれない。
それに弊害を述べるならもう一つ。
悲しいかな、この設定にそのままあてはめるには、まだまだ女性にとっては「仕事」というものは「フツー」に入れられるほど人生の一部とはなっていないのじゃないか、と思うのだ。
女性がバリバリ働く「リアルクロース」や「きみはペット」でも、しばしば女性の「仕事」は人生の一部ではなく、人生と秤にかけるものとして描かれていた。
(仕事という)「日常」にコドモという「異分子」を入れようにも、親側に女性が入ると日常と異分子が逆転してしまう。それはそれでもちろん別のジャンルでちゃんと漫画として確立はするだろうが、全漫画人口における読者層も反転してしまい、同じ層に共感を呼ぶのは難しくなるのは間違いないだろう。
(ただよつばともうさぎドロップも、掲載雑誌や絵柄からしてもともとあまりメジャー層向けではないだろうから、単純比較で必ずしも読者が減るかと言われればよくわからないが。)
例えその設定がうまれた経緯が偶然だったとしても、以上から、やはりこれらの作品は
「まま父で、まま娘でなければならなかった」のだと思う。
久しぶりに、なっがい考察を書いてしまいました。
他の漫画好きさんの考えや視点は
どうなんだろうなぁー。
(そもそも、まま父とまま娘という設定をここまで重視してる人自体
どれくらいいるんだろうか……。)